2016年5月27日金曜日

天に照らされて

昨夜、ラジオを聴きながら作業をしていて流れた歌に、
思わず動かす手を止め、息をのみ、聴き入ってしまいました。

「私の母に愛をこめて」 Con amores, la mi madre

15世紀のスペイン、イザベル女王のチャペルに従事していた作曲家
フアン・デ・アンチエタが書いた歌です。

お母さん、
愛に包まれて眠ってしまったよ。
そして、夢をみた。
夢の中で僕は、
僕にはもったいないほどの愛に包まれているって、
気がついたんだ。
その愛が、
僕に眠りとやすらぎを
もたらしてくれたんだ。

という感じの内容です。
(「僕」としたのは私の勝手な訳です。「私」かもしれませんね笑)

音を聴くだけでも、
そんな詩が聞こえてくるようです。

暖かな陽だまりか、
やわらかなオレンジの夕日に包まれて
溶けてしまってもいいな〜なんて思えてしまうような
なつかしさを感じるような
ほんの、2分半ほどの
極上の歌です。

なぜだか私は、
天照大神のイメージがふわっと浮かびました笑。


1日に一度、短くてもいいから

「今日もありがたかったなぁ」

という、
そんな感謝の瞬間がもてたらいいですね。

ラジオで歌っていたグループは
セタ・ラグリマスという男性歌手グループ、http://setelagrimas.com/home/
とても柔らかい歌声です。

女声で聴いてみたい方は、テネブラエという合唱グループでの演奏も
素晴らしいです。http://www.tenebrae-choir.com/
純粋さ、素直さに心洗われるようです。

このグループは、いろいろなジャンルの合唱作品を取り上げていて面白いです。
様々なものを取り上げているなかに、
ちょっと言葉に表せないですが、一貫した何かが伝わってきて、
そのセンスのよさが好きです。

「太陽、月、海、星・・Sun, Moon, Sea, Stars 」
というタイトルのCDでは日本の歌、ふるさととか赤とんぼも歌ってくれています。
これも優しい空気に包まれるような素敵なCDです。

いやいや、それにしても
やっぱり人の声って
素晴らしいです・・・。









2016年5月26日木曜日

バッ!・ロック!

以前にも書きましたが
バロック時代というのは、ルネッサンスという大イベントの延長線上にあります。
ルネッサンスとは何かというと、
心の成長でいう「自我の目覚め」ではないかと感じます。

それまでの時代は、すべて神。
その下に生きる人間は、罪を犯し楽園を追い出されたもの。
神への畏敬、むしろ恐れの方が強いような心境の中に
生きていたのではないかと感じます。

美術でみると、中世は宗教絵画一色。描き方もとても禁欲的です。
音楽でも、神に捧げるものとして、不協に響く和音を使うことは許されませんでした。

そこから一気に開花するルネッサンスという大イベント。

こんな「おいら」もまんざらじゃないぜ
え〜じゃないか、え〜じゃないか、え〜じゃないか!

というノリです笑。


赤ちゃんの成長における「自我の芽生え」として言われるのは
「あれがしたい、これがしたい」の欲求。

欲求が出ることの背景には、
自己の価値を認める
「自覚」が背景にありますよね。

ルネッサン スに起こったことというのは
我ら人間にも輝きが備わっているじゃないか、
ということの感得ではないでしょうか。

その「個性」に対する圧倒的な興味
そして、自我に目覚めた瞬間の喜びが溢れている時代だと感じます。

自分に内在する神を見出す、くらいの心の勢いがあったかもしれませんね。
それがどう映し出されたかは別として。

心の痛みの表現などは、
音楽の場合「短調」が用いられますが、
バロック音楽の短調の作品の中に
私はいわゆる「暗さ」を感じません。
むしろ、心の痛みを「ドラマ」という形に置き換えて
「表現できる」ということに対する
爆発的な喜びさえ感じます。

「人生は舞台
人は役者」

というシェークスピアの言葉にも
その舞台に起こる全てのドラマを
皆で味わい楽しもうじゃないか

というメッセージが含まれているように思います。

人間のはじけるような感情、
「感じることのできる力」と
私は言いたいですが、
感じようじゃないか、表現しちゃおうじゃないか!
そんな自己肯定感の中の喜びの音楽

3世紀にも隔たりますが、
これから私たちに必要とされる感性に
共振してくるものがあるような気がします。










2016年5月24日火曜日

ロカテッリ コンチェルト・グロッソ作品1 第6番 第一楽章 ハ短調

片恋のこの想い、
世界中に打ち明けたくて居ても立ってもいられず、
突き上げる気持ちは喉までかかり、
なのに、この熱くなった喉元に風を通すことすら出来ず、
ただただ燃える気持ちを飲み込む。

ロカテッリのこの曲を聴いたなら、
そんな気持ちと思わず共振してしまうのではないでしょうか。

釘をうちつけるようにたたかれる冒頭の四つの短調の音。
報われない恋であることを象徴するかのよう。

しかしその頑な音からはりさけるように、ヴァイオリンの歌がはじまる。

メロディーは、いつもならカデンツァ(ドミナント→トニックの和声進行)をもって、そのフレーズを完了するものだが、このメロディーでは終結を嫌うかのように
カデンツァを避ける。
どうしても決着のつかない気持ちが
ゆらゆらと揺れ動くようだ。

装飾を持って紬ぎ出される歌の背後に浮き上がるのは、
「ド-シ♭-ラ♭-ソ」とうつむく下降の音型。
やはりそこに、
報われない運命が示されてしまっているのか・・。

我慢しきれなくなったかのように、
そのメロディーをとうとう低弦が歌いだす時には、
切なさが極まり心臓が痛む程だ。

メロディーの後ろで刻まれる八分音符は、
心臓を射止める(あるいは突き刺す?)
矢のよう。

恋を覚え始めた思春期に、
布団をかぶってオフコースに聴き入り(こういうとおおよその世代がバレてしまいますね笑)、恋心にどっぷり浸かったのを思い出します。
聴き入った音楽が何であれ、
みなさんにも同じような経験をお持ちなのではないでしょうか。

このコンチェルト・グロッソを聴くと、
なぜだかそんな激しく溌剌とした力がみなぎっていたあの頃を思い出します。

不思議なことに、ロカテッリがこの作品を書き上げたのは
250年以上も前になるというのに、
感情の噴火が今にも起こるような気分にさせられる・・。
オフコースを卒業した今でも
オフコースの代替えで
充分いけるではないか!♡

実に音楽というのは、
時間を通り越して「今」の音となりうるものなのだ、
そんな事実に嬉しくなる。

激しく揺れる感情を味わえるのが人間の醍醐味、
心若返る「ロカテッリ作コンチェルト・グロッソ」、
是非お試しあれ!



2016年5月23日月曜日

襟を正す

ブラジルでは、文化省が閉鎖されるというニュースでアーティスト、ミュージシャンをはじめ、あらゆる人々が抗議の旗を掲げています。

ヨーロッパでは、ヨーロッパユニオンユースオーケストラを閉鎖するというニュースに、若いミュージシャンたちはロンドンのフェスティヴァルホールの前に集まり、ベートーヴェンの第九を演奏しながら抗議をしました。

文化活動の縮小、これは世界的なレベルでの意識の流れを感じます。
経済的な問題であったり、解決しきれない争いがあったり、その問題が頂点に達してきているような段階にあり、文化に心を向けているような状況ではない、というのが本音なのかもしれません。

しかし、 このような時代こそ、文化に感化できるような「感性」が必要になってくると感じます。
それは、「つながる」という感受性を与えてくれるからです。
「気づき」という感性を与えてくれるからです。
「感動」という、心を開く術も教えてくれるからです。

インターネットの普及で文化全般において、個人の楽しみ方が劇的に変化しました。
それはそれで、ありがたい恩恵がたくさんあると思います。

ミュージシャンという立場から見ると、その変化をしっかりと受け止めつつ、
音楽という、「楽」の本質をどうやってこれからきちんと伝えていけるのか、
ということを真剣に考えなくてはならなくなってきた。
本質にもう一度向き合うための、大切な転換点として受け止めたいものです。

襟を正す。そんな気持ちでいます。


2016年2月1日月曜日

2月に入り

いよいよ2月に突入。
今週末、「バッハを読む」というコンサートを控え、
読んでおります・・・汗。

今回の会場は水戸奏楽堂。
音楽を愛して止まないオーナーさんが、
演奏家の息遣いまで感じれるようなコンサートを
提供したい、という想いが募って建ててしまった、
というホールで、
サイズは収容人数80人弱という、
本当に息遣いの聞こえる(汗)空間です。

小さいとはいえ、音楽ホール設計専門の建築士
によるものなので、本格的なホールの雰囲気があり、
その上演奏家と聴衆の一体感を感じれる
とても贅沢なホールです。http://sougakudou310.weebly.com/



そんな場所ですので、ヴァイオリンのモノローグなんかもいいなあ、と
そして私も語りながらのコンサートです。
日曜の午後の小一時間、皆さんとバッハ(達)がヴァイオリンにかけた想いを
皆さんと共に感じられる時となりますように。


2016年1月29日金曜日

テレマン 「コオロギ」

巷ではインフルエンザが流行りだし、ちなみに今もみぞれが降っていて冬本格的だが、一方日中の光はどこか季節の変化を見せるようになって、ワクワクする。

ワクワクするのにオススメなのがテレマンの管弦楽曲「コオロギ」
Grillen Symphonie( Crickets symphony)

普段は表舞台にさほど出てこないコントラバスや、クラリネットの化身であるシャリュモーなどを用いて、コオロギの描写に近づいているところをみると、音のパレット使いが天才というのか、匠そのもの!

特にシャリュモーを他の楽器の音色と合わせてまた特別な音色を創り出しているところなどは、絵の具の色を混ぜ合わせていくような楽しい作業だろう。


ウチの畑でも暖かくなると、そこら中でびょんびょん飛び回るようになるが、登場する5月あたりはまだまだ羽の摩れる音だけでお粗末さま。
それが秋に向かうにつれだんだんとうまくなっていくのを聴くのがなんだか嬉しい笑。

上手いのやら、下手のやらが混ざって歌う。そしてゴキブリじゃないか?っと一瞬ギョッとする大きさでびょんびょん飛びまくり、時には柔らかい芽を豪快に食べてくれてしまう姿を、テレマンは見事に描いているなあ、と感心してしまう。

バッハと親交が深かった彼、とてもジョーク好きだったと伝わっているが、この作品に表れた愉快さは聴く人をワクワクな気分にしてくれる。

2016年1月27日水曜日

テレマン ガリバー組曲

子供の頃に読んだ「ガリヴァー旅行記」(スウィフト著)。
いまでこそ子供向けのお話とされているけれど、実は
出版された当時(完全版1735年)のイギリスを批判している風刺文学で、
最高の政治学入門書と認識されているらしい。

かなりの評判を呼んで、初版は1週間で売り切れてしまったとか。

それから250年たった今、アウトリーチにいった小学校では、
1割に満たない子供しかこの本を読んでいないようだけれど、

でもやっぱり本屋に行けば必ず売っているし、
250年のロングラン、と思うとかなりすごいことだなあ ・・笑。

ちなみに、ジブリ「天空の城ラピュタ」のラピュタも
もともとはガリヴァー旅行記で描かれた島だし、

知らない人がいない Yahoo(ヤフー)という名前も
ガリヴァー旅行記に描かれたキャラクターの名前。

まあとにかく、今の今まで世界に残るほどのセンセーションを巻き起こした、ってわけで、テレマンのような作曲家が題材に取り上げたのも、
今でいう、ヒットした映画の音楽を、あとから出版するような感覚だったかもしれない。

そういうと、例えば先に挙げたジブリ作品にしたって、
感動した映画の音楽を聴くと、画像までがくっきりと思い出されたりして、
イメージと音のつながりって、かなりダイレクトにつながってくるもの。
まあ、五感のどれもそうだと思うけれど。

今日は子供達に、ガリヴァーが訪ねた不思議な国をそれぞれかいつまんで読みながら、
音楽を聴いてもらったのだけれど、
私自身、どちらの作品も活かせなかったような感覚が残った。

本当にイメージを音の描写から「観る」という感覚を楽しむには、
ガリヴァーとともに訪ねたくらいの想像体験をしていたら、
音自体も、もっともっと感覚的に生きてくるんだろうなあ。

想像する。
それを音に創りかえてまた想像する。
ラッキーな私たちが与えられた「想像力」。
この楽しみが、今も、そして250年後もまた、
ますます力をましてロングランとなりますように・・。